自分軸はなぜ必用か 弁護士松江仁美が教える「自分軸の作り方」

② 自分軸はなぜ必用か

 前回、自分軸と他人軸のお話しをしました。その中で、自分軸というのは、自分の人生を自分で判断し、決定できる力であるとお伝えしました。
 今回は、なぜ自分軸が必用なのか、言い換えれば、自分の人生を自分で判断し、自分で決定できると、どんないいことが待っているのかをお話ししたいと思います。
 
 結論から言えば、自分軸をもっていると、「幸せ度が高くなる」ということに尽きると思います。
 「幸せになる」ではなくて、「幸せ度が高くなる」という言い方をしていることにポイントがあります。幸せというのは客観的で万人に共通な基準があるわけでは無く、自分が幸せと「感じる」かどうかにかかっているからなのです。

 たとえば、ニュージーランドは、国民の幸せ度がとても高い国だと言われています。今、自分は幸せであると答えている人は実に国民の87%にのぼるそうです。しかし、特に国民全体の所得が高いわけでもありません。実際、実感として、所得が高いと回答しているのは国民の50%程度だそうです。しかし、所得の高い層もそれほど高くない層も、幸せと感じる度合いはそれほど変わっていないのです。では、なぜ、幸せ度が高いのでしょうか。
 実は私は昨年の9月に、ニュージーランドクライストチャーチに住んでいる大学時代の友人のところをたずねてしばらく滞在したのですが、そのとき、この理由がよく分かりました。ニュージーランドの人たちは、人から幸せに見えるかではなく、自分が幸せと感じることが、その人にとっての「幸せ」だと根っから考えているのです。だから、人と比較してどうこう張り合うということに余り興味がありません。人は人、自分は自分、それぞれにそれぞれの幸せがある、自分は自分の幸せを追求する、ということに本当に忠実なのです。
 日本人が正反対なので、逆によく分かると思うのですが、日本人は人がどう思うか、人が自分をどう見るかをとても気にする民族です。その結果、地位とか、名誉とか、財産とか、客観的な物差しで測れる幸せ基準を勝手に作ってしまい、それを満たそうともがきます。ところが、ある程度これらを手に入れても、当たり前ですが上には上がいるので、いつまで経っても満たされることがありません。だから幸せを感じられないのです。
 
 もう一つの例ですが、同じく国民の幸せ度のとても高い国として、ブータンという国があります。しかし、この国、国連が用意した幸福度ランキング基準(国民総生産、とか、社会的支援体制の整備、平均健康寿命、などなど、ある程度の客観的基準)での順位を見ると、131位という、とっても低い地位になってしまいます。
 

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客観的な幸福の基準と、自分が感じる幸福の基準は異なるという典型的な見本です。

 さて、自分軸に話を戻しましょう。
 幸せというモノについて、自分が幸せと感じるかどうかが幸せの基準なのだと思えば、人と争う必用はなくなります。人によって、何が幸せかは違うからです。まさに自分基準、自分軸のある発想です。
 そして大切なのは、人が用意した客観的な基準を達成することは不可能であり(必ず上には上がいます)、それを追い求める努力は苦痛でしかありません。しかし、自分がしたいこと、自分が満足できる事を追い求めるのは、その過程が既に幸せなのです。
 
 自分軸で生きるというのは自分勝手に生きることを言っているのではありません。自分の信念で、自分に誇りをもち、自分の選択を信じて、自分の目的のために生きることを言っているのです。他者と比較して生きるのではなく、昨日の自分を今日の自分は乗り越えていこうという意識で生きることをいいます。だから、必ず達成が可能であり、幸せ度が高くなるのです。
 
 武道もそうです。私の稽古している空手はスポーツ空手ではなく、武道としての空手です。ですから、他者と比較する事は意味が無く、敵は昨日の自分のみとなります。この点は又項を変えてお話ししましょう。